自分のためにきれいになる

主に美容備忘録 Twitter@chorinriri

リップメイクは安く抑えたい

イヴ・サンローラン・ボーテ「ルージュヴォリュプテシャイン」、ゲラン「キスキスローズリップ」などなど、気になるハイブランドの口紅は多くあるものの、意外と減らない割に色味をいくつか持っていた方が捗るリップメイクは、なるべく安く抑えたい。プチプラながらなかなか使えたリップコスメの備忘録。

 

キャンメイク「ステイオンバームルージュ」

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580円(税抜)ながら大変優秀。あと何色か追加で買ってもいいぐらいお気に入りの品である。発色がよいという点もさることながら、リップクリーム並みに潤ってくれるのがとてもよい。さすがにがさがさの唇に直塗り、というわけにはいかないが、このルージュだけで潤いをキープできる点は素晴らしい。形状もスティック状だから手軽に塗れるし、量も多いのでけちらずもりもり塗れる。手持ちは2番と5番。

 

ステイオンバームルージュとセットになると輝くのが、同じくキャンメイク「リップ&チーク ジェル」である。

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使用するのはステイオンバームルージュの5番とリップ&チークジェルの1番。前者は「色素の薄い赤ちゃんピンクリップ」、後者は「透明感のある赤リップ」といったイメージだが、それぞれを上唇と下唇に塗りこすりあわせると、いい感じに濃いめの大人なピンクリップになる。こすりあわせる前の二つとは異なる質感・色になるので、リップメイクの幅が広がる。

 

ケイト「ルージュハイグラム」

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OR-10を実習中と就活中に使っていた。もちろん派手なメイクはできない期間だったが、かといってほぼすっぴんというわけにもいかない。就活メイクは業界によっていろいろあるとは思うが、わたしが意識したのはどれだけ元気そうな人間に見えるかである。わたしは実年齢よりも落ち着いた雰囲気なので、メイクで快活さを加えたかった。そこでオレンジである。OR-10は「めっちゃ薄めればオレンジでてきそう」というくらいの色なので、就活でも使いやすいと思う。ルージュハイグラムはあまり乾燥しないし、見た目も黒でスクエア型だから派手な印象も与えない。

 

ロレアルパリ「エクストラオーディナリールージュマット」

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マットではない方が人気のようだが、マットの方はそれはもうびっくりするくらいマット。日常使いではなくお出かけ用・パーティー用の唇に仕上がる。自分女優さんかな?というくらい印象的な唇になる。その分注意することはいくつかあって、しっかりついてきれいに発色するから、それだけ落ちにくい。つまり、服やらハンカチやらにつけると大変なことになる。あとロレアルのリップコスメはにおいがついているので、それが苦手な場合は注意である。唇は鼻に近いので、においに酔う危険もありうる。もちろん色選びも十分気をつけないと、全然似合わない色を買ってしまったときの失敗度が高い。ちなみにわたしは107マドレーヌピンクを持っている。モードな感じに仕上げたいときに使うリップだ。

 

コスメだけでなくリップケアについても。

リップクリームはキュレル「リップケアクリーム」を使っている。

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今住んでいるところは湿度が低いので、わたしの唇は年中がさがさである。キュレルのリップクリームは唇の表面をやわらかく保ってくれるので、ぱりぱりになって唇の皮をむくというわたしの悪癖を抑えてくれる。本当にありがたい。どこでも売っているのが本当にありがたい。

 

また唇の調子がいいときは、それを維持するためにスクラブでマッサージしている。使っているのはLUSH「リップスクラブ ミントフレーバー」。

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砂糖がベースのスクラブなので、引き締めるのではなくやわらかくしてくれる。唇の皮をスクラブで除去しているというより、唇のマッサージのために使用しているという感がある。しかし確かに唇の潤いが違うので、メイク前にマッサージするとメイクののりが違う。

 

以上、魅力的な唇をめざすぞ~。

卒論を書くことを通して自分という人間がよくわかった

今日卒業論文を提出した。昨年の演習から大きくテーマを変えていないので、一年間ないし直前の期間、ずっと必死に卒論に取り組んできたというわけではなかった。けれど仕上げるまでは本当に苦痛で、仕上げたのも「もう解放されたい」という気持ちでかなりいい加減に終えてしまった。わたしは修士に進むわけでもないので、卒論の出来が良かろうと悪かろうと今後の進路になにか影響があるわけではない。だから卒論は出すことにこそ意味があるので、出来の悪い学生に付き合ってくださり今後審査もしてくださる指導教官には本当に感謝している。

 

さて、そんな指導教官に卒論指導中に言われた一言が、わたしの学生生活を貫くコンプレックスを見事に言い当てていたということがあった。

「この辺り、勉強不足がわかってしまうんですよね……体系的に学べるカリキュラムじゃないからしょうがないのだけれど」

勉強不足という点については真摯に反省、という感じだったが、「体系的に学ぶ」という点がぐさっと刺さってきた。カリキュラム的には概論や基礎文献購読の演習が用意されているから、まったく体系的でないというわけでもない。しかし哲学は、歴史が長い上にどのようなテーマでも扱えてしまうという特性上、ひとつの研究テーマを決めると時間軸も空間軸もいくらでも拡張して勉強することができてしまう。そして研究者たちはそういった教養をもとに論文を書くから、それを読む側もその教養をある程度把握していないと内容を理解し切ることができない。そういった膨大な周縁知識をすべて拾い集めることが、卒論程度で可能なのだろうか。周縁を拾い切ることができず体系的な知識を獲得しないまま卒論に臨んでいたことは、この卒論の大きな弱点である。

 

というのがわたしの言い訳だった。本当は面倒だったのだ。これは拾わなくてはならない周縁であるということがわかっていながら、読まなかった文献がいくつもある。一年あったのだから、合間に就活を挟んでいたとしても十分に読める量だった。でも読まなかった。読まなくてもぎりぎり合格できる卒論が書けるとわかっていたから。「こんなもんでしょう」と世の中を甘く見ているから、わたしは「できる」ことしかしていない。

 

周りの人たちは、卒論で「やりたい」ことをしていて憧れる(わたしのように「できる」範囲でしかしていない人は、わたしと同じようにひっそりと卒論を書いていたから目立っていないのかもしれないけれど)。卒論で自分の論証したいことがしっかりあって、そのために自分の論拠を補強する文献をたくさん読んで、周縁の知識もどんどん拾っていってる。遠くの大学にある資料を取り寄せたり、邦訳のないものなら外国語も勉強して読んだりしている。みんなすごい、憧れる。きっと彼らの卒論はみんな秀がつくんだろう。そうじゃなかったらおかしい。

 

おそらくそういった人たちの全員に、飛び抜けた才能があるわけではないだろう。卒論に力を注ぐ人は、修士に進む人がほとんどだ。けれど全員が研究者になれるわけではない。ほんの一握りの人しかポストにつけないだろう。でも彼らは、「やりたい」こと、あるいはそのテーマに突き動かされて「やらなくてはならない」ことをしている。わたしはそれが羨ましかった。直接は関係しない文献を読む面倒さを上回るだけの「やりたい」ことがある学生生活は、とても充実したものとなるだろう。

 

わたしはこれまでの人生で、「やりたい」ことではなく「できる」ことしかしてこなかった。やりたいこともなければなりたい自分もなくて、今の能力のまま努力せずに獲得できる最大のステータスとはなにか?ということを考え続けて、あらゆる選択をしてきた。特別な才能はないということはよくわかっていたし、何かに執着するという根性もなかったので、世で言われている価値基準に照らして何かと選択をしてきた。でもこれまでの人生、結構楽しかったと思う。多分わたしは器用な方の人間だから、何をしても大体うまくいった。自分の能力はよくわかっているから、それを上回らないぎりぎりの学校や就職先を選択して、失敗せずにやってこれた。それで周りからは「なんて優秀なんだ」と誉められる。人生そこそこ楽しい。

 

でも、人生懸けてのめりこむほど「やりたい」ことのある生活ってどんなものなのか、興味がある。わたしはきっとそうやってのめりこむことはないから、余計気になる。自分は「やりたい」ことのない人間だから、「やりたい」ことのある人をそばで見ていたい。

 

わたしが唯一のめりこむ可能性があるのは、男だろう。わたしと違って、「やりたい」ことのある人。持て余している器用さを使ってその人の夢を応援できるのなら、自分の器用さをいくらでも提供してやりたい。近い将来ヒモを飼うだろう。

THE BODY SHOP holicの備忘録

卒論を書くのがあまりにも苦痛なので、書きたいこと・備忘録を。

 

最近THE BODY SHOPにはまってしまって、いろいろ手を出したり手を出そうとしたりしている。THE BODY SHOPにはまったきっかけは、香りにこだわったセンツオブワールドシリーズのインディアンナイトジャスミンがあまりにもつぼだったから。

インディアンナイトジャスミン 特集 | THE BODY SHOP(ザ・ボディショップ)化粧品(コスメ)のオンライン通販サイト

ボディクリームとミストを使用中。

ジャスミンの香りというと他製品はジャスミンティーの香りだなという印象を受けるけれど、これは甘さとあたたかさがあって深い香り。大人な匂いで、お風呂上がりにクリームを塗っているといつまでもくんくんしていたくなる。夏はボディローションを使う予定。

 

保湿の王道・シアシリーズでは、シャワークリームを使っている。

シア特集 | THE BODY SHOP(ザ・ボディショップ)化粧品(コスメ)のオンライン通販サイト

シャワークリームとはボディソープのことで、他のものは「シャワージェル」となっているのがシアのみ「クリーム」。シャワークリームは泡立ちが悪いし、単体で洗い上げてもなんだか体がきれいになった感じがしない。なのでわたしは、他のボディソープ(カウブランド・ミルキィボディーソープ)と混ぜて使用している。(ミルキィボディーソープ)3:(シアシャワークリーム)1という割合で混ぜ、泡立てネットで泡を作る。ミルキィボディーソープのみだと肌がつっぱる感じがするので、シアを混ぜるとちょうどいい感じ。でも、他に保湿力のそこそこあるボディソープを探したほうが安くあがるのかなあ。

 

THE BODY SHOPは限定商品が多く、店頭で香りを確認するだけでも楽しい。最近ならクリスマス向けに三つシリーズが出ていて、わたしはクランベリーのボディクリームを買ってしまった。

クリスマス特集 | THE BODY SHOP(ザ・ボディショップ)化粧品(コスメ)のオンライン通販サイト

フルーツ系の香りも試してみたいと思っていたのでクランベリーはいい冒険だったのだが、思っていたクランベリーとはちょっと違うかなあ。店頭で試してみたときに違和感はあったけれど、実際体に塗ったら印象も変わるだろうと思い購入するも、やはりなんだか違う。クランベリーの甘酸っぱい匂いはするけれど、お菓子的な甘さもして少ししつこい印象の香り。でもいいにおいには違いないので、使用期限内に気長に使っていこうと思う。

 

次の二つはこれから購入するかもしれないもの。

THE BODY SHOPは、動物実験反対とかフェアトレードとか企業倫理について意識が高いそうだ。そういった文脈で、人工的にムスクの香りを合成できたことによってジャコウジカを犠牲にせずに、ムスクの香りの製品を生産していることを売りにしている。

ホワイトムスク特集 | THE BODY SHOP(ザ・ボディショップ)化粧品(コスメ)のオンライン通販サイト

このホワイトムスクシリーズの中で、びびっときたのがスモーキーローズのボディローションである。

スモーキーローズ特集 | THE BODY SHOP(ザ・ボディショップ)化粧品(コスメ)のオンライン通販サイト

「これあれですわ、お姉さんの香り!」と気分が上がる。春になったら買うかもしれない。

 

それから今のBBクリームがなくなったら買おうと思っているのが、リキッドファンデーション。

フレッシュヌード ファンデーション SPF15 012| THE BODY SHOP(ザ・ボディショップ) オフィシャルサイト

これが絶対に欲しいというわけでもないが、店員さんに色味を選んでもらったのが嬉しくて購入候補に。わたしは12番がちょうどよいそうだ。

THE BODY SHOPはやたらポイントがたまってゆくので、一定額たまったらファンデーションを買ってしまってもよいかもしれない。

 

ということでTHE BODY SHOPの備忘録。

twitterに書くには長いこと

なんで短歌をやっているかって、それはわたしだけれどわたしではない表現の形を取りたいからだ。 短い詩形の中で、世界が開けるような発見に出会う瞬間がたまらなく好きで、短歌を読むし作る。少し前に求めていた出会いは、美しさとかかけがえのなさとかだったけれど、今出会いたいのは生々しい「生きていること」だ。楽になりたいことは悪いことじゃないから、生きていることが苦しかったらそれを取り除くことをすればいい。 わたしの場合は、誰かに伝わっても伝わらなくてもいいから、苦しさを表現することで楽になれる。でも、散文を書いたり人に話したりすると、わたしの感じている苦しみが割り引かれた状態でしか伝えられない。自分を苦しさから解放してあげたいのに、なんだか消化不良な感じが残ってしまう。それは多分、論理性とか、レトリックとか、そういうわたしの苦しさに関係ないことを気にしながら表現してしまうからだ。あとは、この話聞いてくれてる人が不快な思いしないようにとか、あんまり心配させちゃ悪いなとか思って、自分の苦しさを無意識の内に割り引いて話してもいると思う。こうやってためこんでしまうから、切羽詰まって大変なことになるのにね、この癖やめられない。 苦しさについて文章を書いたり話したりすることで苦しさを解消しようとしても、自分の中には中途半端に残った苦しさともやもやが残ってしまう。短歌にすると、なぜかこの苦しさが楽になる。短歌を作っているときはめちゃくちゃ苦しくて泣いちゃうし無気力になって使い物にならないわたしになってしまうけれど、作り終えたあと、体が軽くなる感じがする。作り終えてしまったら、誰に読まれなくてもいい。作ることが自分にとって大事なんだと思う。ていうかそういうことしか短歌にできなくなってきた。自分の苦しさ以外を短歌にしても、あんまり面白くない。面白くないことしたくないから、人に読まれることがわかっていても、自分の苦しさについての作品を作っちゃうんだよなあ。 詩を書いてみたらもしかしたら短歌と同じくらいうまくいくのかもしれない。でも今のところは短歌でいいかな。詩の事情は知らないけれど、短歌は楽だ。なんで楽かって、わたしの名前のついた作品でも、わたしの表現でも、わたしとして読まれる必然性がないからだ。短歌を読むとき、どこまでが本当でどこからが創作なのか、そんなこと考えてたら短歌に真向かえないよ。わたしの短歌を読むっていうなら、わたしではなくてわたしの短歌だけを見て。こうやって読者を突き放してしまいたい。 短歌うまくなりたいけど、別に下手でもいい。わたしの苦しさにぴったりした短歌を作ることが最終目標だから、人から見て下手な短歌でも、わたしが納得できたらそれでいいんだ。

高齢者の参政権を奪えというのはあさっての議論

少子高齢社会で住民投票を行えば、その決定が高齢者の意見を反映しがちになってしまうのは当然のことで、これが利益集計型の決定方法の限界である。利益集計型の決定では、人々の選好は変えることのできないものであり、その選好を集計して多数決で決定することが有効な方法であるとされる。こうしたやり方は最良でないにしても、一億の人口を抱える国ではとらざるを得ない方法だし、二百万を超える有権者を抱える大阪市にしても、多数決以外の方法で物事を決めるのは現実的ではない。

 

そこで問題は、「多数決という方法で生じてしまう結果のゆがみをどう改良していくか」だと思われる。利益集計型の決定方法の盲点のひとつが、集計する利益は本当に有権者各個人の利益を代表しているのか、という点にある。今回の住民投票で投じられた票は、有権者各個人が投票で争われている課題を十分に検討した上で出された、洗練された意見の集約なのか? この点を改良できれば、集計された利益をより実際に反映することができるので、利益集計型の決定の妥当性が高まる。投票にかけられる課題の内容を周知することは、政策提案者の義務的なものとも言えるから、住民説明会や公開討論会を積極的に行うことが必要だ(大阪市もやっただろうけど)。あるいは政治的なことに参与することが市民の義務であると考えるのであれば、ミニ・パブリクスの実施に踏みこむこともありうるだろう。

また、今回の大阪市住民投票で顕著に現れた、特定の集団の利益が代表されるという事態も利益集計型の決定の盲点である。多数決で決めることで多様な選好を調節する作用が生じているように見えるが、利益集計型の決定では9:1での可決も6:4での可決も同じ扱いになり、一割の人が反対した政策も四割の人が反対した政策も制度上は同じように実行されることになる。九割の人が賛成した政策と六割の人が賛成した政策では、実施にあたってそれぞれの配慮をすることが妥当に思われるが、それは行政の裁量にかかっているのである。多様な意見を切り捨てる紋切り型の決定を下しがちな利益集計型の決定を修正するには、投票に掛ける前に課題にまつわる論点を明らかにし、利益集団間の調整を行っておくことが有効だ。

そもそも利益集計型の決定は、決定に参加していない人の意見が反映されないという構造的な問題もある(参加という課題については政治的な営み全般に言えることかもしれないが)。

 

しかし、議論はあさっての方向に向かっているようだ。「票の重みを寿命とヒモ付けするべきだ」というような意見は、若年層の「これからの国・社会はおれたちがつくっていくんだから、先の短い老いぼれは黙っていろ」というような意識を反映しているようのだろうが、この論理はそのまま自分たちに返って来るのだから安易に持ち出さない方が賢明である。すなわち、いざ自分たちが高齢世代になったとき、若年層から「こんな社会にしたのはお前たちだよな?」と言われ、自分たち高齢世代の持つ政治的権利の平等性を脅かされても文句は言えない、ということである(同様に、団塊の世代が「今の日本をつくってきたのはおれたちだ」と言う主張も慎むべきだ)。命の重さと政治的権利を結び付けるという構造は、世代間闘争に限らず、他の場面にも適用できるのが恐ろしい。たとえば、将来世代を再生産している子どもをもっている有権者とそうではない有権者、経済発展に寄与している有権者と心身の不健康のために働くことのできない有権者日本国籍を有する者とそうではない者、といった例を挙げることができる。ある政治的課題について、それに最も貢献している者の意見が最も尊重されるべきだ、という主張は、利益の対立を消滅させようとする方向に向いている。それは政治的な場面での意見の同質化を志向していることであり、一種の全体主義に陥る危険もある。ある政治的な課題への貢献度を、その課題への参与の条件としてしまうことは、政治的な課題そのものを消し去ろうとしてしまうことであり、課題の解決にはなっていないのである。

 

上記のような主張をしてしまう人は、政治的平等についての感度が低いというよりも、自分の政治的立場がいつでも変わり得るということに明示的でないのだろう。もしかしたら自分も子どもを持つかもしれない、急な事故で働けなくなるかもしれない、自分でないにしてもパートナーが日本国籍を持っていないかもしれない。検討すべきは政策の内容であり、政治に参与する条件を安易に変えることではない。

相対主義というものの見方についてのメモ

歴史修正主義は「絶対的な歴史的事実など存在せず、解釈のみが存在する」という立場をとり、あるイデオロギーにとって都合のよい解釈を擁護する。こうした立場は、相対主義そのものが絶対的なものとなっているという点で自己矛盾を呈している。

 

相対主義はまた、使い方を誤ると思考停止に陥る。相反する選択肢をとることについて「人それぞれでいいと思います」と意思表明することは、多元性に対して寛容であるような態度を示すように見えて、実はなにも考えていないということがしばしばである。生命倫理セクシュアリティについて議論しようとすると、かなりの頻度で「人それぞれでいいと思います」という旨の発言を聞くように思われる。あるテーマが問題となるのは「人それぞれ」では困ることが出てきたからであって、大して議論していない内から「人それぞれでいい」などと言っては、議論を放棄していると思われても仕方ない。議論を尽くしてもあるひとつの結論に至ることができないということが確認される前から、寛容で良心的な態度を装うことは欺瞞とも言えよう。

 

相対主義がいけない、絶対主義がいけない、という話ではなく、どちらもともに目的化されてはならないという話だろう。「ある解が存在する/しない」と前提することは、検証する前から解についての属性を定めてしまうわけだから、論証が曲げられてしまう可能性をはらんでいる。相対主義/絶対主義というものの見方は、あるテーマを検証するときの手段として用いることが有効なのであろう。

理性的に平和を語るために

三浦瑠麗という学者が、日本が安易に戦争に走らない国にならないように、老若男女を問わない徴兵制を導入するべきだという主張をしている。徴兵制が導入されれば、社会は兵隊にとられるというリスクと戦争を行うことをてんびんにかけるため、安易に戦争に走らないだろうというものである。彼女の論の中では徴兵制というリスクが恐怖としても理解されていて、理性的な計算による判断のために戦争が回避されるというよりかは、恐怖という情念の圧力によって戦争を積極的に選択しないだろうという見方もなされている。恐怖による支配の是非は置いておいて、彼女の主張においては、徴兵制が及ぼす社会と国家の関係性の変容については述べられているが、徴兵制という「義務」と基本的人権がどう両立するのかが述べられていない。三浦はこの点をどう論証するのか。

 

平和のために徴兵制を、というような話を耳にするとき、それらは総じて知的エリートによる当事者性の希薄さという印象を受ける。といっても、そういった話は学生間の政治にまつわる世間話の中で出てくるような話のことだが。旧帝大の学生が日本も軍隊を持つべきだと主張するとき、その軍隊に自らが参加することは想定されているのだろうか。自分が誰かを殺すことを想定しているのだろうか。そして、自分が誰かに殺されることを想定しているのだろうか。人を殺す/殺されるという課題を脇においたままで、国際社会的な視点に立ち防衛政策の一環として軍隊を保有すべきだという主張は、たとえ論が通っていたとしても、あらゆる個人が国の主権を構成しているという当事者性を欠いている。国際社会を俯瞰的に捉える視点は当然大切だが、政治実践においては生身の人間同士が向き合うことになる。各個人の重大な倫理的な選択について保留にしたまま好戦的な政策を実践に移すことは、社会に深刻な混乱をもたらすことになるだろう。知的エリートが御託を並べても、その言葉の裏には「将来の日本を担う知的エリートである自分が前線に立つことは社会にとっての損失だから、自分は前線に立つつもりはない」という意識を感じざるをえない。防衛政策を語るとき、知的エリートたちはこうした印象を拭うために、誠実に言葉を重ねることしかできないだろう。

 

わたし自身は軍隊やら徴兵制やらはご免だが、それはわたしの父が、知的エリートが兵隊として想定している(たとえ想定していなくとも、知的エリートの言説は想定しているかのような印象を与えてしまいうる、という意味で)非エリートだからだろう。父は、わたしが中学生のときに勤めていた会社が倒産して、それ以降非正規雇用で働き続けている。そうか、父の命は「国」のために「つかわれる」のか、と妄想に近い想像を膨らませてみると、生まれる感情は知的エリートに対する憎しみである。いくら社会が戦争に対して自制的であったとしても制度として戦争という選択肢を残している限り、戦争になって動員されるのはわたしの父のような人たちではないのか。そうした人たちの命が、国のために使われる可能性が存在してしまう。知的エリートたち自身は、自分たちの命を捧げる覚悟があるのか、と息巻いてしまいそうになる。

 

知的エリートが防衛政策、もっと広く政治と言っても外れないと思われるが、そういったものを語るとき、理性的とは言いがたい情念の噴出という危険が伴いうる。平和や政治を語る言葉が知的エリートだけのものとなってしまうことは、その言説に「戦争なんて非エリートが行けばいい」という言外の印象を伴って、反知性主義的な抗争を引き起こすことにつながりかねない。平和を作る主体、政治に参画する主体は自分自身であり、あらゆる個人であるという普遍的な当事者性を涵養することは、平和や政治を理性的に語るために欠かせない投資であろう。

発言をどのように理解するのか

 発話主体の属性を無視した発言の理解は、重要ななにかを見落としてしまうことになるのではないか。

  

 

 ロールズ的な社会契約には限界がある。収入や障碍の有無、性別や国籍といった自らの属性をすべて知らされない状態で十全な理性の使用をしたとき、社会契約に当たってわたしたちが福祉国家を志向するかどうかというのは、空想上の疑問である。人がこの世界に生まれ落ちてしまう瞬間にあらゆる属性が付与されてしまう以上、その属性が白紙の状態の人はいない。この地点から、コミュニタリアンのように属性を本質的なものと捉えるとうまくいかないが、ムフのように属性を構成的なものとして理解すれば道が開ける。わたしたちは既に、ある属性を持っていると思いがちだが、その属性は固定されたものではなく、変容する可能性を持っている。このように前提することで、議論の場において参加者は、自らの属性が再構成されうるという緊張感と覚悟を伴った状態で発話することを要請される。

 

 こうした発話・発言を理解するとき、どういった要素が最も重要なのか。それがテキストにそった理性的なものであるとしてしまうと、テキストからすくいとることのできる意味が限定されてしまう。『最貧困女子』はあらすじしか見ていないが、彼女たちは圧倒的に困難な境遇において、自らの必要を冷静に理解して要求することができていない。性風俗店や売春で日銭を稼ぐことしかできていない彼女たちを見れば多くの人たちは、公的扶助に頼ればいいのになぜしないのかといぶかしがる。彼女たちは「理性的なもの」が欠けていると判断され、「社会」へ自分の声を届ける途を閉ざされてしまう。彼女たちの命と人格の尊厳を守るために彼女たちを行政へつなげるとか、知的障碍者や生活困難者の実態を詳細に調査するといった政策が重要であることは言うまでもないが、福祉国家社会政策への望郷というか知的エリートによるパターナリズムというか、そういった観点から脱することができなければ、社会的弱者は永遠にその属性を固定されることになる。次なるステージは、「理性的なもの」が欠けた発言そのものを、社会を作り出す原動力とすることだろう。

 

 理性的なものが欠如した発言を理解するには、理解する側が、その発言の発信者の属性を汲み取ることを要請される。言外の意味や要素を誠実にすくいあげ、なぜその発言に至ったのかを辿らなくてはならない。最貧困女子が「生活保護を受けられない」と発言するとき、彼女は十分に日本語を読みこなす能力がないから申請書類を書くことができないのかもしれないし、家庭での虐待環境から逃れてきた過去があるのかもしれない。こうした想像力が必要とされると、ひとつのテキストを理解するのにも大きな負荷がかけられることになる。これを政治家や行政職員の個人の努力に頼ろうとするのは無理な話だ。個人の努力のような曖昧な形ではなく、なんらかの仕組みとして人々の声を理解することを検討しなくてはならない。

 

 わたしは中間団体という処方箋を提出したいが、もう少し考える必要がある。

インターネットに公共圏はつくれるか

議会みたいにその場で話し合うことのできる人になんらかの資格があるような場ではなく、その辺にいるいろんな人が自由にアクセスできる議論の場っていうのをどうすれば実現できるか、またその場へのアクセスをいかにオープンなものとし、衆愚化させないかというようなことを勉強したいと思っている。増田とかとぅぎゃったーとか、頻度はそんなに高くないけれど建設的な意見の提出は見られる。問題はそういう議論の萌芽を、どう建設的に育てていくかだと思う。議論を建設的に育てていくために必要なものは今のところ大きく二つ見えていて、ひとつは積極的・建設的に議論しようとする主体、もうひとつは継続性だ。

 

前者について、twitterやらはてなやらネット上では、議論に参与しようとする主体がいても現状ノイズが多いのが問題。ただノイズの中には確かに宝石が埋まっていて、これはテレビとか新聞が対象とする「世論」よりもよっぽど優れた点である(小保方騒動とか見ているとテレビや新聞が対象とする「世論」がいかに本質を無視している存在かわかる。STAP細胞があればいいなら論文にねつ造された部分があっていいのか、それは実験・観測によって仮説を実証してきた科学という営みそのものを否定することにはならないのか、STAP騒ぎはそういう話じゃないの?ネット上では「STAPあれば万々歳」みたいなお花畑意見にとどまらずとことん掘り下げた意見がいくらでもある)。

 

後者は情報化社会を否定するような論点の挙げ方ではある。次々に新たな情報に更新されていって、みんなの関心が薄れてきたらそのコンテンツは破棄される。そういうものなんだから継続性なんていってもしゃあないんだろうけど、ある程度構造を持った議題はしだいに肉感をもってわたしたちの日常生活とシンクロしてくる。誰かの頭の片隅にはずっとその話題が残っていて、その人の日常生活のどこかでその話題がフラッシュバックする。そのときの衝撃をオープンな議論の場でフィードバックすると、その話題というのは深化してよみがえる。ここに話題の継続性が生まれる。

 

その場でなにを議論するか、というのはもうすこし考えがまとまってから書く。まあなにが言いたいかって、インターネットに公共性は担えるかっていう疑問をまとめたかっただけ。

地方都市で生き延びる

全国にチェーン展開しているコンビニとか飲食店とかで働く経験というのは、将来自分が困ったときに身を助けるスキルになるのではないかと思っている。

 

大学在学中に資格に関する単位を取りきれなかったら、田舎に戻って地元大学の科目聴講生になろうと思っている。大学は四年で卒論を出して卒業し、資格に関する科目で足りないものを卒業後に補う。その間どうやって生活するつもりかというと、実家に住んでバイトをしながらちょこちょこ大学に通う。そして採用試験の勉強をする。科目聴講生として学校に通うのもいいが、通信でもいい。とりあえずアルバイトで働きながら。

 

大学に一留して足りない単位を取るというすべもあるが、半期四単位とかのために25万以上+半年分の家賃+生活費というのはもったいない気がする。資格にまつわる単位なんてどこでとっても同じなのだから、それだったら地元に引っ込んでしまったほうがいい。家賃は浮くし、一人暮らしのときに必要だった家事の時間が圧倒的に減る。余った時間で試験勉強にいそしむ。

 

バイトはチェーン店のほうがいい。レジの仕組みも同じだし、基本用語も同じ。慣れる必要があるのはその店の習慣くらいだ。またこういうチェーン店は田舎でも大体便の良いところにある。駅近くとかショッピングモールの中とか。実家は地方都市にあるのでバイト先にはよりどりみどりだ。そしてなにより、こういうところは責任感をあまり感じなくていい。今自分は、資格取得・採用試験合格にむけた仮の生活を送っているのだと忘れさせない。

 

全国どこにでもあるチェーン店で働いた経験があれば、とりあえず自分を助けることはできるような気がする。あくまで「とりあえず」だけど。その先に目的がないならお先真っ暗だけども。