自分のためにきれいになる

主に美容備忘録 Twitter@chorinriri

理性的に平和を語るために

三浦瑠麗という学者が、日本が安易に戦争に走らない国にならないように、老若男女を問わない徴兵制を導入するべきだという主張をしている。徴兵制が導入されれば、社会は兵隊にとられるというリスクと戦争を行うことをてんびんにかけるため、安易に戦争に走らないだろうというものである。彼女の論の中では徴兵制というリスクが恐怖としても理解されていて、理性的な計算による判断のために戦争が回避されるというよりかは、恐怖という情念の圧力によって戦争を積極的に選択しないだろうという見方もなされている。恐怖による支配の是非は置いておいて、彼女の主張においては、徴兵制が及ぼす社会と国家の関係性の変容については述べられているが、徴兵制という「義務」と基本的人権がどう両立するのかが述べられていない。三浦はこの点をどう論証するのか。

 

平和のために徴兵制を、というような話を耳にするとき、それらは総じて知的エリートによる当事者性の希薄さという印象を受ける。といっても、そういった話は学生間の政治にまつわる世間話の中で出てくるような話のことだが。旧帝大の学生が日本も軍隊を持つべきだと主張するとき、その軍隊に自らが参加することは想定されているのだろうか。自分が誰かを殺すことを想定しているのだろうか。そして、自分が誰かに殺されることを想定しているのだろうか。人を殺す/殺されるという課題を脇においたままで、国際社会的な視点に立ち防衛政策の一環として軍隊を保有すべきだという主張は、たとえ論が通っていたとしても、あらゆる個人が国の主権を構成しているという当事者性を欠いている。国際社会を俯瞰的に捉える視点は当然大切だが、政治実践においては生身の人間同士が向き合うことになる。各個人の重大な倫理的な選択について保留にしたまま好戦的な政策を実践に移すことは、社会に深刻な混乱をもたらすことになるだろう。知的エリートが御託を並べても、その言葉の裏には「将来の日本を担う知的エリートである自分が前線に立つことは社会にとっての損失だから、自分は前線に立つつもりはない」という意識を感じざるをえない。防衛政策を語るとき、知的エリートたちはこうした印象を拭うために、誠実に言葉を重ねることしかできないだろう。

 

わたし自身は軍隊やら徴兵制やらはご免だが、それはわたしの父が、知的エリートが兵隊として想定している(たとえ想定していなくとも、知的エリートの言説は想定しているかのような印象を与えてしまいうる、という意味で)非エリートだからだろう。父は、わたしが中学生のときに勤めていた会社が倒産して、それ以降非正規雇用で働き続けている。そうか、父の命は「国」のために「つかわれる」のか、と妄想に近い想像を膨らませてみると、生まれる感情は知的エリートに対する憎しみである。いくら社会が戦争に対して自制的であったとしても制度として戦争という選択肢を残している限り、戦争になって動員されるのはわたしの父のような人たちではないのか。そうした人たちの命が、国のために使われる可能性が存在してしまう。知的エリートたち自身は、自分たちの命を捧げる覚悟があるのか、と息巻いてしまいそうになる。

 

知的エリートが防衛政策、もっと広く政治と言っても外れないと思われるが、そういったものを語るとき、理性的とは言いがたい情念の噴出という危険が伴いうる。平和や政治を語る言葉が知的エリートだけのものとなってしまうことは、その言説に「戦争なんて非エリートが行けばいい」という言外の印象を伴って、反知性主義的な抗争を引き起こすことにつながりかねない。平和を作る主体、政治に参画する主体は自分自身であり、あらゆる個人であるという普遍的な当事者性を涵養することは、平和や政治を理性的に語るために欠かせない投資であろう。