自分のためにきれいになる

主に美容備忘録 Twitter@chorinriri

発言をどのように理解するのか

 発話主体の属性を無視した発言の理解は、重要ななにかを見落としてしまうことになるのではないか。

  

 

 ロールズ的な社会契約には限界がある。収入や障碍の有無、性別や国籍といった自らの属性をすべて知らされない状態で十全な理性の使用をしたとき、社会契約に当たってわたしたちが福祉国家を志向するかどうかというのは、空想上の疑問である。人がこの世界に生まれ落ちてしまう瞬間にあらゆる属性が付与されてしまう以上、その属性が白紙の状態の人はいない。この地点から、コミュニタリアンのように属性を本質的なものと捉えるとうまくいかないが、ムフのように属性を構成的なものとして理解すれば道が開ける。わたしたちは既に、ある属性を持っていると思いがちだが、その属性は固定されたものではなく、変容する可能性を持っている。このように前提することで、議論の場において参加者は、自らの属性が再構成されうるという緊張感と覚悟を伴った状態で発話することを要請される。

 

 こうした発話・発言を理解するとき、どういった要素が最も重要なのか。それがテキストにそった理性的なものであるとしてしまうと、テキストからすくいとることのできる意味が限定されてしまう。『最貧困女子』はあらすじしか見ていないが、彼女たちは圧倒的に困難な境遇において、自らの必要を冷静に理解して要求することができていない。性風俗店や売春で日銭を稼ぐことしかできていない彼女たちを見れば多くの人たちは、公的扶助に頼ればいいのになぜしないのかといぶかしがる。彼女たちは「理性的なもの」が欠けていると判断され、「社会」へ自分の声を届ける途を閉ざされてしまう。彼女たちの命と人格の尊厳を守るために彼女たちを行政へつなげるとか、知的障碍者や生活困難者の実態を詳細に調査するといった政策が重要であることは言うまでもないが、福祉国家社会政策への望郷というか知的エリートによるパターナリズムというか、そういった観点から脱することができなければ、社会的弱者は永遠にその属性を固定されることになる。次なるステージは、「理性的なもの」が欠けた発言そのものを、社会を作り出す原動力とすることだろう。

 

 理性的なものが欠如した発言を理解するには、理解する側が、その発言の発信者の属性を汲み取ることを要請される。言外の意味や要素を誠実にすくいあげ、なぜその発言に至ったのかを辿らなくてはならない。最貧困女子が「生活保護を受けられない」と発言するとき、彼女は十分に日本語を読みこなす能力がないから申請書類を書くことができないのかもしれないし、家庭での虐待環境から逃れてきた過去があるのかもしれない。こうした想像力が必要とされると、ひとつのテキストを理解するのにも大きな負荷がかけられることになる。これを政治家や行政職員の個人の努力に頼ろうとするのは無理な話だ。個人の努力のような曖昧な形ではなく、なんらかの仕組みとして人々の声を理解することを検討しなくてはならない。

 

 わたしは中間団体という処方箋を提出したいが、もう少し考える必要がある。