自分のためにきれいになる

主に美容備忘録 Twitter@chorinriri

twitterに書くには長いこと

なんで短歌をやっているかって、それはわたしだけれどわたしではない表現の形を取りたいからだ。 短い詩形の中で、世界が開けるような発見に出会う瞬間がたまらなく好きで、短歌を読むし作る。少し前に求めていた出会いは、美しさとかかけがえのなさとかだったけれど、今出会いたいのは生々しい「生きていること」だ。楽になりたいことは悪いことじゃないから、生きていることが苦しかったらそれを取り除くことをすればいい。 わたしの場合は、誰かに伝わっても伝わらなくてもいいから、苦しさを表現することで楽になれる。でも、散文を書いたり人に話したりすると、わたしの感じている苦しみが割り引かれた状態でしか伝えられない。自分を苦しさから解放してあげたいのに、なんだか消化不良な感じが残ってしまう。それは多分、論理性とか、レトリックとか、そういうわたしの苦しさに関係ないことを気にしながら表現してしまうからだ。あとは、この話聞いてくれてる人が不快な思いしないようにとか、あんまり心配させちゃ悪いなとか思って、自分の苦しさを無意識の内に割り引いて話してもいると思う。こうやってためこんでしまうから、切羽詰まって大変なことになるのにね、この癖やめられない。 苦しさについて文章を書いたり話したりすることで苦しさを解消しようとしても、自分の中には中途半端に残った苦しさともやもやが残ってしまう。短歌にすると、なぜかこの苦しさが楽になる。短歌を作っているときはめちゃくちゃ苦しくて泣いちゃうし無気力になって使い物にならないわたしになってしまうけれど、作り終えたあと、体が軽くなる感じがする。作り終えてしまったら、誰に読まれなくてもいい。作ることが自分にとって大事なんだと思う。ていうかそういうことしか短歌にできなくなってきた。自分の苦しさ以外を短歌にしても、あんまり面白くない。面白くないことしたくないから、人に読まれることがわかっていても、自分の苦しさについての作品を作っちゃうんだよなあ。 詩を書いてみたらもしかしたら短歌と同じくらいうまくいくのかもしれない。でも今のところは短歌でいいかな。詩の事情は知らないけれど、短歌は楽だ。なんで楽かって、わたしの名前のついた作品でも、わたしの表現でも、わたしとして読まれる必然性がないからだ。短歌を読むとき、どこまでが本当でどこからが創作なのか、そんなこと考えてたら短歌に真向かえないよ。わたしの短歌を読むっていうなら、わたしではなくてわたしの短歌だけを見て。こうやって読者を突き放してしまいたい。 短歌うまくなりたいけど、別に下手でもいい。わたしの苦しさにぴったりした短歌を作ることが最終目標だから、人から見て下手な短歌でも、わたしが納得できたらそれでいいんだ。