自分のためにきれいになる

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高齢者の参政権を奪えというのはあさっての議論

少子高齢社会で住民投票を行えば、その決定が高齢者の意見を反映しがちになってしまうのは当然のことで、これが利益集計型の決定方法の限界である。利益集計型の決定では、人々の選好は変えることのできないものであり、その選好を集計して多数決で決定することが有効な方法であるとされる。こうしたやり方は最良でないにしても、一億の人口を抱える国ではとらざるを得ない方法だし、二百万を超える有権者を抱える大阪市にしても、多数決以外の方法で物事を決めるのは現実的ではない。

 

そこで問題は、「多数決という方法で生じてしまう結果のゆがみをどう改良していくか」だと思われる。利益集計型の決定方法の盲点のひとつが、集計する利益は本当に有権者各個人の利益を代表しているのか、という点にある。今回の住民投票で投じられた票は、有権者各個人が投票で争われている課題を十分に検討した上で出された、洗練された意見の集約なのか? この点を改良できれば、集計された利益をより実際に反映することができるので、利益集計型の決定の妥当性が高まる。投票にかけられる課題の内容を周知することは、政策提案者の義務的なものとも言えるから、住民説明会や公開討論会を積極的に行うことが必要だ(大阪市もやっただろうけど)。あるいは政治的なことに参与することが市民の義務であると考えるのであれば、ミニ・パブリクスの実施に踏みこむこともありうるだろう。

また、今回の大阪市住民投票で顕著に現れた、特定の集団の利益が代表されるという事態も利益集計型の決定の盲点である。多数決で決めることで多様な選好を調節する作用が生じているように見えるが、利益集計型の決定では9:1での可決も6:4での可決も同じ扱いになり、一割の人が反対した政策も四割の人が反対した政策も制度上は同じように実行されることになる。九割の人が賛成した政策と六割の人が賛成した政策では、実施にあたってそれぞれの配慮をすることが妥当に思われるが、それは行政の裁量にかかっているのである。多様な意見を切り捨てる紋切り型の決定を下しがちな利益集計型の決定を修正するには、投票に掛ける前に課題にまつわる論点を明らかにし、利益集団間の調整を行っておくことが有効だ。

そもそも利益集計型の決定は、決定に参加していない人の意見が反映されないという構造的な問題もある(参加という課題については政治的な営み全般に言えることかもしれないが)。

 

しかし、議論はあさっての方向に向かっているようだ。「票の重みを寿命とヒモ付けするべきだ」というような意見は、若年層の「これからの国・社会はおれたちがつくっていくんだから、先の短い老いぼれは黙っていろ」というような意識を反映しているようのだろうが、この論理はそのまま自分たちに返って来るのだから安易に持ち出さない方が賢明である。すなわち、いざ自分たちが高齢世代になったとき、若年層から「こんな社会にしたのはお前たちだよな?」と言われ、自分たち高齢世代の持つ政治的権利の平等性を脅かされても文句は言えない、ということである(同様に、団塊の世代が「今の日本をつくってきたのはおれたちだ」と言う主張も慎むべきだ)。命の重さと政治的権利を結び付けるという構造は、世代間闘争に限らず、他の場面にも適用できるのが恐ろしい。たとえば、将来世代を再生産している子どもをもっている有権者とそうではない有権者、経済発展に寄与している有権者と心身の不健康のために働くことのできない有権者日本国籍を有する者とそうではない者、といった例を挙げることができる。ある政治的課題について、それに最も貢献している者の意見が最も尊重されるべきだ、という主張は、利益の対立を消滅させようとする方向に向いている。それは政治的な場面での意見の同質化を志向していることであり、一種の全体主義に陥る危険もある。ある政治的な課題への貢献度を、その課題への参与の条件としてしまうことは、政治的な課題そのものを消し去ろうとしてしまうことであり、課題の解決にはなっていないのである。

 

上記のような主張をしてしまう人は、政治的平等についての感度が低いというよりも、自分の政治的立場がいつでも変わり得るということに明示的でないのだろう。もしかしたら自分も子どもを持つかもしれない、急な事故で働けなくなるかもしれない、自分でないにしてもパートナーが日本国籍を持っていないかもしれない。検討すべきは政策の内容であり、政治に参与する条件を安易に変えることではない。