自分のためにきれいになる

主に美容備忘録 Twitter@chorinriri

THE BODY SHOP holicの備忘録

卒論を書くのがあまりにも苦痛なので、書きたいこと・備忘録を。

 

最近THE BODY SHOPにはまってしまって、いろいろ手を出したり手を出そうとしたりしている。THE BODY SHOPにはまったきっかけは、香りにこだわったセンツオブワールドシリーズのインディアンナイトジャスミンがあまりにもつぼだったから。

インディアンナイトジャスミン 特集 | THE BODY SHOP(ザ・ボディショップ)化粧品(コスメ)のオンライン通販サイト

ボディクリームとミストを使用中。

ジャスミンの香りというと他製品はジャスミンティーの香りだなという印象を受けるけれど、これは甘さとあたたかさがあって深い香り。大人な匂いで、お風呂上がりにクリームを塗っているといつまでもくんくんしていたくなる。夏はボディローションを使う予定。

 

保湿の王道・シアシリーズでは、シャワークリームを使っている。

シア特集 | THE BODY SHOP(ザ・ボディショップ)化粧品(コスメ)のオンライン通販サイト

シャワークリームとはボディソープのことで、他のものは「シャワージェル」となっているのがシアのみ「クリーム」。シャワークリームは泡立ちが悪いし、単体で洗い上げてもなんだか体がきれいになった感じがしない。なのでわたしは、他のボディソープ(カウブランド・ミルキィボディーソープ)と混ぜて使用している。(ミルキィボディーソープ)3:(シアシャワークリーム)1という割合で混ぜ、泡立てネットで泡を作る。ミルキィボディーソープのみだと肌がつっぱる感じがするので、シアを混ぜるとちょうどいい感じ。でも、他に保湿力のそこそこあるボディソープを探したほうが安くあがるのかなあ。

 

THE BODY SHOPは限定商品が多く、店頭で香りを確認するだけでも楽しい。最近ならクリスマス向けに三つシリーズが出ていて、わたしはクランベリーのボディクリームを買ってしまった。

クリスマス特集 | THE BODY SHOP(ザ・ボディショップ)化粧品(コスメ)のオンライン通販サイト

フルーツ系の香りも試してみたいと思っていたのでクランベリーはいい冒険だったのだが、思っていたクランベリーとはちょっと違うかなあ。店頭で試してみたときに違和感はあったけれど、実際体に塗ったら印象も変わるだろうと思い購入するも、やはりなんだか違う。クランベリーの甘酸っぱい匂いはするけれど、お菓子的な甘さもして少ししつこい印象の香り。でもいいにおいには違いないので、使用期限内に気長に使っていこうと思う。

 

次の二つはこれから購入するかもしれないもの。

THE BODY SHOPは、動物実験反対とかフェアトレードとか企業倫理について意識が高いそうだ。そういった文脈で、人工的にムスクの香りを合成できたことによってジャコウジカを犠牲にせずに、ムスクの香りの製品を生産していることを売りにしている。

ホワイトムスク特集 | THE BODY SHOP(ザ・ボディショップ)化粧品(コスメ)のオンライン通販サイト

このホワイトムスクシリーズの中で、びびっときたのがスモーキーローズのボディローションである。

スモーキーローズ特集 | THE BODY SHOP(ザ・ボディショップ)化粧品(コスメ)のオンライン通販サイト

「これあれですわ、お姉さんの香り!」と気分が上がる。春になったら買うかもしれない。

 

それから今のBBクリームがなくなったら買おうと思っているのが、リキッドファンデーション。

フレッシュヌード ファンデーション SPF15 012| THE BODY SHOP(ザ・ボディショップ) オフィシャルサイト

これが絶対に欲しいというわけでもないが、店員さんに色味を選んでもらったのが嬉しくて購入候補に。わたしは12番がちょうどよいそうだ。

THE BODY SHOPはやたらポイントがたまってゆくので、一定額たまったらファンデーションを買ってしまってもよいかもしれない。

 

ということでTHE BODY SHOPの備忘録。

twitterに書くには長いこと

なんで短歌をやっているかって、それはわたしだけれどわたしではない表現の形を取りたいからだ。 短い詩形の中で、世界が開けるような発見に出会う瞬間がたまらなく好きで、短歌を読むし作る。少し前に求めていた出会いは、美しさとかかけがえのなさとかだったけれど、今出会いたいのは生々しい「生きていること」だ。楽になりたいことは悪いことじゃないから、生きていることが苦しかったらそれを取り除くことをすればいい。 わたしの場合は、誰かに伝わっても伝わらなくてもいいから、苦しさを表現することで楽になれる。でも、散文を書いたり人に話したりすると、わたしの感じている苦しみが割り引かれた状態でしか伝えられない。自分を苦しさから解放してあげたいのに、なんだか消化不良な感じが残ってしまう。それは多分、論理性とか、レトリックとか、そういうわたしの苦しさに関係ないことを気にしながら表現してしまうからだ。あとは、この話聞いてくれてる人が不快な思いしないようにとか、あんまり心配させちゃ悪いなとか思って、自分の苦しさを無意識の内に割り引いて話してもいると思う。こうやってためこんでしまうから、切羽詰まって大変なことになるのにね、この癖やめられない。 苦しさについて文章を書いたり話したりすることで苦しさを解消しようとしても、自分の中には中途半端に残った苦しさともやもやが残ってしまう。短歌にすると、なぜかこの苦しさが楽になる。短歌を作っているときはめちゃくちゃ苦しくて泣いちゃうし無気力になって使い物にならないわたしになってしまうけれど、作り終えたあと、体が軽くなる感じがする。作り終えてしまったら、誰に読まれなくてもいい。作ることが自分にとって大事なんだと思う。ていうかそういうことしか短歌にできなくなってきた。自分の苦しさ以外を短歌にしても、あんまり面白くない。面白くないことしたくないから、人に読まれることがわかっていても、自分の苦しさについての作品を作っちゃうんだよなあ。 詩を書いてみたらもしかしたら短歌と同じくらいうまくいくのかもしれない。でも今のところは短歌でいいかな。詩の事情は知らないけれど、短歌は楽だ。なんで楽かって、わたしの名前のついた作品でも、わたしの表現でも、わたしとして読まれる必然性がないからだ。短歌を読むとき、どこまでが本当でどこからが創作なのか、そんなこと考えてたら短歌に真向かえないよ。わたしの短歌を読むっていうなら、わたしではなくてわたしの短歌だけを見て。こうやって読者を突き放してしまいたい。 短歌うまくなりたいけど、別に下手でもいい。わたしの苦しさにぴったりした短歌を作ることが最終目標だから、人から見て下手な短歌でも、わたしが納得できたらそれでいいんだ。

高齢者の参政権を奪えというのはあさっての議論

少子高齢社会で住民投票を行えば、その決定が高齢者の意見を反映しがちになってしまうのは当然のことで、これが利益集計型の決定方法の限界である。利益集計型の決定では、人々の選好は変えることのできないものであり、その選好を集計して多数決で決定することが有効な方法であるとされる。こうしたやり方は最良でないにしても、一億の人口を抱える国ではとらざるを得ない方法だし、二百万を超える有権者を抱える大阪市にしても、多数決以外の方法で物事を決めるのは現実的ではない。

 

そこで問題は、「多数決という方法で生じてしまう結果のゆがみをどう改良していくか」だと思われる。利益集計型の決定方法の盲点のひとつが、集計する利益は本当に有権者各個人の利益を代表しているのか、という点にある。今回の住民投票で投じられた票は、有権者各個人が投票で争われている課題を十分に検討した上で出された、洗練された意見の集約なのか? この点を改良できれば、集計された利益をより実際に反映することができるので、利益集計型の決定の妥当性が高まる。投票にかけられる課題の内容を周知することは、政策提案者の義務的なものとも言えるから、住民説明会や公開討論会を積極的に行うことが必要だ(大阪市もやっただろうけど)。あるいは政治的なことに参与することが市民の義務であると考えるのであれば、ミニ・パブリクスの実施に踏みこむこともありうるだろう。

また、今回の大阪市住民投票で顕著に現れた、特定の集団の利益が代表されるという事態も利益集計型の決定の盲点である。多数決で決めることで多様な選好を調節する作用が生じているように見えるが、利益集計型の決定では9:1での可決も6:4での可決も同じ扱いになり、一割の人が反対した政策も四割の人が反対した政策も制度上は同じように実行されることになる。九割の人が賛成した政策と六割の人が賛成した政策では、実施にあたってそれぞれの配慮をすることが妥当に思われるが、それは行政の裁量にかかっているのである。多様な意見を切り捨てる紋切り型の決定を下しがちな利益集計型の決定を修正するには、投票に掛ける前に課題にまつわる論点を明らかにし、利益集団間の調整を行っておくことが有効だ。

そもそも利益集計型の決定は、決定に参加していない人の意見が反映されないという構造的な問題もある(参加という課題については政治的な営み全般に言えることかもしれないが)。

 

しかし、議論はあさっての方向に向かっているようだ。「票の重みを寿命とヒモ付けするべきだ」というような意見は、若年層の「これからの国・社会はおれたちがつくっていくんだから、先の短い老いぼれは黙っていろ」というような意識を反映しているようのだろうが、この論理はそのまま自分たちに返って来るのだから安易に持ち出さない方が賢明である。すなわち、いざ自分たちが高齢世代になったとき、若年層から「こんな社会にしたのはお前たちだよな?」と言われ、自分たち高齢世代の持つ政治的権利の平等性を脅かされても文句は言えない、ということである(同様に、団塊の世代が「今の日本をつくってきたのはおれたちだ」と言う主張も慎むべきだ)。命の重さと政治的権利を結び付けるという構造は、世代間闘争に限らず、他の場面にも適用できるのが恐ろしい。たとえば、将来世代を再生産している子どもをもっている有権者とそうではない有権者、経済発展に寄与している有権者と心身の不健康のために働くことのできない有権者日本国籍を有する者とそうではない者、といった例を挙げることができる。ある政治的課題について、それに最も貢献している者の意見が最も尊重されるべきだ、という主張は、利益の対立を消滅させようとする方向に向いている。それは政治的な場面での意見の同質化を志向していることであり、一種の全体主義に陥る危険もある。ある政治的な課題への貢献度を、その課題への参与の条件としてしまうことは、政治的な課題そのものを消し去ろうとしてしまうことであり、課題の解決にはなっていないのである。

 

上記のような主張をしてしまう人は、政治的平等についての感度が低いというよりも、自分の政治的立場がいつでも変わり得るということに明示的でないのだろう。もしかしたら自分も子どもを持つかもしれない、急な事故で働けなくなるかもしれない、自分でないにしてもパートナーが日本国籍を持っていないかもしれない。検討すべきは政策の内容であり、政治に参与する条件を安易に変えることではない。

相対主義というものの見方についてのメモ

歴史修正主義は「絶対的な歴史的事実など存在せず、解釈のみが存在する」という立場をとり、あるイデオロギーにとって都合のよい解釈を擁護する。こうした立場は、相対主義そのものが絶対的なものとなっているという点で自己矛盾を呈している。

 

相対主義はまた、使い方を誤ると思考停止に陥る。相反する選択肢をとることについて「人それぞれでいいと思います」と意思表明することは、多元性に対して寛容であるような態度を示すように見えて、実はなにも考えていないということがしばしばである。生命倫理セクシュアリティについて議論しようとすると、かなりの頻度で「人それぞれでいいと思います」という旨の発言を聞くように思われる。あるテーマが問題となるのは「人それぞれ」では困ることが出てきたからであって、大して議論していない内から「人それぞれでいい」などと言っては、議論を放棄していると思われても仕方ない。議論を尽くしてもあるひとつの結論に至ることができないということが確認される前から、寛容で良心的な態度を装うことは欺瞞とも言えよう。

 

相対主義がいけない、絶対主義がいけない、という話ではなく、どちらもともに目的化されてはならないという話だろう。「ある解が存在する/しない」と前提することは、検証する前から解についての属性を定めてしまうわけだから、論証が曲げられてしまう可能性をはらんでいる。相対主義/絶対主義というものの見方は、あるテーマを検証するときの手段として用いることが有効なのであろう。

理性的に平和を語るために

三浦瑠麗という学者が、日本が安易に戦争に走らない国にならないように、老若男女を問わない徴兵制を導入するべきだという主張をしている。徴兵制が導入されれば、社会は兵隊にとられるというリスクと戦争を行うことをてんびんにかけるため、安易に戦争に走らないだろうというものである。彼女の論の中では徴兵制というリスクが恐怖としても理解されていて、理性的な計算による判断のために戦争が回避されるというよりかは、恐怖という情念の圧力によって戦争を積極的に選択しないだろうという見方もなされている。恐怖による支配の是非は置いておいて、彼女の主張においては、徴兵制が及ぼす社会と国家の関係性の変容については述べられているが、徴兵制という「義務」と基本的人権がどう両立するのかが述べられていない。三浦はこの点をどう論証するのか。

 

平和のために徴兵制を、というような話を耳にするとき、それらは総じて知的エリートによる当事者性の希薄さという印象を受ける。といっても、そういった話は学生間の政治にまつわる世間話の中で出てくるような話のことだが。旧帝大の学生が日本も軍隊を持つべきだと主張するとき、その軍隊に自らが参加することは想定されているのだろうか。自分が誰かを殺すことを想定しているのだろうか。そして、自分が誰かに殺されることを想定しているのだろうか。人を殺す/殺されるという課題を脇においたままで、国際社会的な視点に立ち防衛政策の一環として軍隊を保有すべきだという主張は、たとえ論が通っていたとしても、あらゆる個人が国の主権を構成しているという当事者性を欠いている。国際社会を俯瞰的に捉える視点は当然大切だが、政治実践においては生身の人間同士が向き合うことになる。各個人の重大な倫理的な選択について保留にしたまま好戦的な政策を実践に移すことは、社会に深刻な混乱をもたらすことになるだろう。知的エリートが御託を並べても、その言葉の裏には「将来の日本を担う知的エリートである自分が前線に立つことは社会にとっての損失だから、自分は前線に立つつもりはない」という意識を感じざるをえない。防衛政策を語るとき、知的エリートたちはこうした印象を拭うために、誠実に言葉を重ねることしかできないだろう。

 

わたし自身は軍隊やら徴兵制やらはご免だが、それはわたしの父が、知的エリートが兵隊として想定している(たとえ想定していなくとも、知的エリートの言説は想定しているかのような印象を与えてしまいうる、という意味で)非エリートだからだろう。父は、わたしが中学生のときに勤めていた会社が倒産して、それ以降非正規雇用で働き続けている。そうか、父の命は「国」のために「つかわれる」のか、と妄想に近い想像を膨らませてみると、生まれる感情は知的エリートに対する憎しみである。いくら社会が戦争に対して自制的であったとしても制度として戦争という選択肢を残している限り、戦争になって動員されるのはわたしの父のような人たちではないのか。そうした人たちの命が、国のために使われる可能性が存在してしまう。知的エリートたち自身は、自分たちの命を捧げる覚悟があるのか、と息巻いてしまいそうになる。

 

知的エリートが防衛政策、もっと広く政治と言っても外れないと思われるが、そういったものを語るとき、理性的とは言いがたい情念の噴出という危険が伴いうる。平和や政治を語る言葉が知的エリートだけのものとなってしまうことは、その言説に「戦争なんて非エリートが行けばいい」という言外の印象を伴って、反知性主義的な抗争を引き起こすことにつながりかねない。平和を作る主体、政治に参画する主体は自分自身であり、あらゆる個人であるという普遍的な当事者性を涵養することは、平和や政治を理性的に語るために欠かせない投資であろう。

発言をどのように理解するのか

 発話主体の属性を無視した発言の理解は、重要ななにかを見落としてしまうことになるのではないか。

  

 

 ロールズ的な社会契約には限界がある。収入や障碍の有無、性別や国籍といった自らの属性をすべて知らされない状態で十全な理性の使用をしたとき、社会契約に当たってわたしたちが福祉国家を志向するかどうかというのは、空想上の疑問である。人がこの世界に生まれ落ちてしまう瞬間にあらゆる属性が付与されてしまう以上、その属性が白紙の状態の人はいない。この地点から、コミュニタリアンのように属性を本質的なものと捉えるとうまくいかないが、ムフのように属性を構成的なものとして理解すれば道が開ける。わたしたちは既に、ある属性を持っていると思いがちだが、その属性は固定されたものではなく、変容する可能性を持っている。このように前提することで、議論の場において参加者は、自らの属性が再構成されうるという緊張感と覚悟を伴った状態で発話することを要請される。

 

 こうした発話・発言を理解するとき、どういった要素が最も重要なのか。それがテキストにそった理性的なものであるとしてしまうと、テキストからすくいとることのできる意味が限定されてしまう。『最貧困女子』はあらすじしか見ていないが、彼女たちは圧倒的に困難な境遇において、自らの必要を冷静に理解して要求することができていない。性風俗店や売春で日銭を稼ぐことしかできていない彼女たちを見れば多くの人たちは、公的扶助に頼ればいいのになぜしないのかといぶかしがる。彼女たちは「理性的なもの」が欠けていると判断され、「社会」へ自分の声を届ける途を閉ざされてしまう。彼女たちの命と人格の尊厳を守るために彼女たちを行政へつなげるとか、知的障碍者や生活困難者の実態を詳細に調査するといった政策が重要であることは言うまでもないが、福祉国家社会政策への望郷というか知的エリートによるパターナリズムというか、そういった観点から脱することができなければ、社会的弱者は永遠にその属性を固定されることになる。次なるステージは、「理性的なもの」が欠けた発言そのものを、社会を作り出す原動力とすることだろう。

 

 理性的なものが欠如した発言を理解するには、理解する側が、その発言の発信者の属性を汲み取ることを要請される。言外の意味や要素を誠実にすくいあげ、なぜその発言に至ったのかを辿らなくてはならない。最貧困女子が「生活保護を受けられない」と発言するとき、彼女は十分に日本語を読みこなす能力がないから申請書類を書くことができないのかもしれないし、家庭での虐待環境から逃れてきた過去があるのかもしれない。こうした想像力が必要とされると、ひとつのテキストを理解するのにも大きな負荷がかけられることになる。これを政治家や行政職員の個人の努力に頼ろうとするのは無理な話だ。個人の努力のような曖昧な形ではなく、なんらかの仕組みとして人々の声を理解することを検討しなくてはならない。

 

 わたしは中間団体という処方箋を提出したいが、もう少し考える必要がある。

インターネットに公共圏はつくれるか

議会みたいにその場で話し合うことのできる人になんらかの資格があるような場ではなく、その辺にいるいろんな人が自由にアクセスできる議論の場っていうのをどうすれば実現できるか、またその場へのアクセスをいかにオープンなものとし、衆愚化させないかというようなことを勉強したいと思っている。増田とかとぅぎゃったーとか、頻度はそんなに高くないけれど建設的な意見の提出は見られる。問題はそういう議論の萌芽を、どう建設的に育てていくかだと思う。議論を建設的に育てていくために必要なものは今のところ大きく二つ見えていて、ひとつは積極的・建設的に議論しようとする主体、もうひとつは継続性だ。

 

前者について、twitterやらはてなやらネット上では、議論に参与しようとする主体がいても現状ノイズが多いのが問題。ただノイズの中には確かに宝石が埋まっていて、これはテレビとか新聞が対象とする「世論」よりもよっぽど優れた点である(小保方騒動とか見ているとテレビや新聞が対象とする「世論」がいかに本質を無視している存在かわかる。STAP細胞があればいいなら論文にねつ造された部分があっていいのか、それは実験・観測によって仮説を実証してきた科学という営みそのものを否定することにはならないのか、STAP騒ぎはそういう話じゃないの?ネット上では「STAPあれば万々歳」みたいなお花畑意見にとどまらずとことん掘り下げた意見がいくらでもある)。

 

後者は情報化社会を否定するような論点の挙げ方ではある。次々に新たな情報に更新されていって、みんなの関心が薄れてきたらそのコンテンツは破棄される。そういうものなんだから継続性なんていってもしゃあないんだろうけど、ある程度構造を持った議題はしだいに肉感をもってわたしたちの日常生活とシンクロしてくる。誰かの頭の片隅にはずっとその話題が残っていて、その人の日常生活のどこかでその話題がフラッシュバックする。そのときの衝撃をオープンな議論の場でフィードバックすると、その話題というのは深化してよみがえる。ここに話題の継続性が生まれる。

 

その場でなにを議論するか、というのはもうすこし考えがまとまってから書く。まあなにが言いたいかって、インターネットに公共性は担えるかっていう疑問をまとめたかっただけ。

地方都市で生き延びる

全国にチェーン展開しているコンビニとか飲食店とかで働く経験というのは、将来自分が困ったときに身を助けるスキルになるのではないかと思っている。

 

大学在学中に資格に関する単位を取りきれなかったら、田舎に戻って地元大学の科目聴講生になろうと思っている。大学は四年で卒論を出して卒業し、資格に関する科目で足りないものを卒業後に補う。その間どうやって生活するつもりかというと、実家に住んでバイトをしながらちょこちょこ大学に通う。そして採用試験の勉強をする。科目聴講生として学校に通うのもいいが、通信でもいい。とりあえずアルバイトで働きながら。

 

大学に一留して足りない単位を取るというすべもあるが、半期四単位とかのために25万以上+半年分の家賃+生活費というのはもったいない気がする。資格にまつわる単位なんてどこでとっても同じなのだから、それだったら地元に引っ込んでしまったほうがいい。家賃は浮くし、一人暮らしのときに必要だった家事の時間が圧倒的に減る。余った時間で試験勉強にいそしむ。

 

バイトはチェーン店のほうがいい。レジの仕組みも同じだし、基本用語も同じ。慣れる必要があるのはその店の習慣くらいだ。またこういうチェーン店は田舎でも大体便の良いところにある。駅近くとかショッピングモールの中とか。実家は地方都市にあるのでバイト先にはよりどりみどりだ。そしてなにより、こういうところは責任感をあまり感じなくていい。今自分は、資格取得・採用試験合格にむけた仮の生活を送っているのだと忘れさせない。

 

全国どこにでもあるチェーン店で働いた経験があれば、とりあえず自分を助けることはできるような気がする。あくまで「とりあえず」だけど。その先に目的がないならお先真っ暗だけども。

マイノリティに接するときに感じる異質性に起因する抵抗感

最近勉強していることに関わるのだが、ある哲学者が理想として与える政治的主体には、周囲からその存在を尊重されるという要件がある。

 

障害を持つ人や病気持ちの人が専用施設ではなく一般の企業などで就労しているという新聞記事があると、多くの人はそれを肯定すると思う。彼らは健常者よりも生産力は低いが、ハンデがありながらも健常者の中でがんばっている。すごい人がいるものだな、と思いスポーツ面を開く。

 

実際に自分と同じコミュニティにハンデを負った人がいたとしたらどうだろう。なんでこんなことを考えたかといえば、今学期とっている授業の担当者がどうも病気持ちのようだからだ。腰痛だろうか、立ち上がったり歩いたりするのに苦労するようで板書がおそろしく遅い。基本的にはパワポで授業をするが、よせばいいのに板書したがる。演習なのだが予習も課さず授業中に問題を解かせて時間を浪費する上に、解説がのんびりしていてたまったものじゃない。

 

後半は病気には関係のない個人中傷と愚痴になってしまったが、安からぬ授業料を奨学金で納めている身としては、それなりの授業を展開してほしいと期待してしまう。いや、いらいらしているのはそんな立派な理由じゃなくて、ちんたらした板書や危なっかしい歩き方が気に障るからだろう。

 

しかしこの人が大学教員のポストにあるということは、それ相応の研究をする資格があると大学に認められたからで、その資質・能力・努力について一学生にはけちのつけようがない。たとえ身体的にハンデがあったとしても。見ていていらいらさせられるとしても。

 

大学教員というポストは社会的地位が高く、おおむねそれなりの待遇を受けることが想像されるが、そういった権威はハンデを持つ人へのまなざしにいかほどの影響を与えるのだろうか。うまく歩けない人に対して憐れみやいらだちの混ざった複雑な感情を抱くことは誰しもあるはずだが、そういったなんとも言えない感情を、「うまく歩けないこと」からは独立した権威は超克しうるのだろうか。

 

簡潔にまとめる。多数派にある者は、マイノリティがマイノリティたるゆえんのところの性質を持つ者(要はマイノリティにある人々)に対し、自分との異質性を見いだして抵抗を覚えてしまう。これは、同じ共同体にあって互いに尊重し合う主体にとって危機である。この危機を乗り越えるためにはどうすればよいか? ひとつはマイノリティをマジョリティに同化することだが、これは否定される(また別の議論が必要だがひとまずおいておく)。次はマイノリティの隔離であるが、その失敗は歴史を振り返れば明らかである。さらに考えられるのはマイノリティの尊重であるが、この尊重が難しいのである。

 

いちばん積極的な尊重は、マイノリティがマイノリティたる理由によって尊重されるということだろう。ある自閉症の画家が描く絵は、彼が自閉症でなかったら見えていない世界を描いている。対してマイノリティたる理由からは独立したなにかしらの性質は、彼の尊重につながるのだろうか。

 

マイノリティに接するときに感じる異質性に起因する抵抗感。

この感覚は超克されうるものなのか、もっと進んで和らげる・消すことができるものなのか、考察の余地がある。

弟への手紙

説教臭いことをつらつらと。

なにを偉そうにとは思うのだが、弟にこういうことを言えるのは彼の周囲にわたししかいない。

 

------------------------------------------

弟よ

 

今は部活も友達と遊ぶのも楽しい時期だし、思春期だから家族につれなく当たってしまうのもわかる。ただお姉ちゃんとひとつ約束してほしい。

死に物狂いで学校の勉強をしろ。

楽しい盛りに学校の勉強をするのはたまらなくつまらないとは思う。けれど、死に物狂いで君に学校の勉強をしてもらいたいのには、三つの理由がある。

 

ひとつは、学校の勉強は権利だからだ。

君はまだ「公民」という言葉を聞いたことがないようだから日本国憲法の内容なんてあまりわからないだろうけれど、とにかく日本には「義務教育」という制度があって、日本の子どもには「教育を受ける権利」がある。「義務」と「権利」という言葉はわかるだろうか? 簡単に言えば、「義務」は「やらなくちゃならないこと」、「権利」は「あることをやる(もしくはやってもらう)のを妨げられないこと」だ。あんまり簡単になってないかもしれない。義務はわかるかと思うのだが、「権利」についてはひとつ例をだそう。たとえば、ある日突然よくわからない武装集団に拉致されたとする。君は椅子にガムテープで縛り付けられ、水さえ与えられない。君は恐怖し、当然憤るだろう。なぜ君は憤るのか? それは、君が理由を知らされず拘束されて、自由を奪われたからだ。この例だと、君の「身体の自由」が奪われ、「自由権」といった「権利」が侵害されたことになる。

「教育を受ける権利」は、この自由権と同じように「権利」である。多くの「権利」は侵害されてはならないものとして、日本国憲法によって保護されている。もし君が教育を受けられない状況になったら、日本国憲法違反(違憲)として裁判所に訴え出ることができる(誰が訴えるとか誰を訴えるとかはいろいろあるけど)。

ここまで読んで「なんでわざわざ、面倒でつらい勉強をする『権利』なんてあるんだ?」と思いはしなかっただろうか。この権利が保障されず「勉強してもしなくてもいいよ」となったとしたらどうなるだろうか? おそらく、君はコンビニでジャンプを買うこともジャンプを読むこともできないだろう。わたしたちの家庭について考えよう。父親は専門学校を出たが今でも非正規雇用、母親は中卒だ。慢性的に金がなく、お姉ちゃんが大きな額の奨学金を借りて大学に行っているのも君は知っているだろう。食うのに精一杯という状況で、親は給食や教材や部活に金のかかる学校へ子どもを通わせるだろうか? うちの両親が教育に理解のある人ならいいけれど、そうでなければ、君は9年間(今の日本で保障されている義務教育の年数)も学校へ行くことはないだろう。そうなれば君は文字の読み書きもできなければ四則演算もできず、今では当たり前だと思っている日常生活すら送れなくなる。

日本国憲法によって保障されている「教育を受ける権利」は、うちのように貧乏な家庭の子でも最低9年間は学校へ通えることを約束している。押し付けがましい、どこか遠くにある話のように感じられるかもしれないが、君はこの「権利」を存分に行使して(使って)ほしい。君が普通に生きることを保障してくれるこの権利を、大切にしてほしいのだ。

 

君に勉強をしてほしい理由のふたつめは、今がんばっておけば将来君が勉強したくなったときに助けになるからだ。

きっと君は、将来学校ではない場で勉強しなくちゃいけない、もしくは勉強したくなることがあるだろう。それは、君がなにかの資格を取りたくなるときや、就職したあとに必要な知識を身につけなくてはいけなくなるときなどだろう。

中学校の国数英理社がこういった勉強の基礎知識になるのは当然だ。だから勉強しておくのに超したことはない。このことも大事なのだが、もっと大事なことがある。それは、学校の勉強をすることで「勉強の仕方」を勉強できるからだ。物事を理解するためにはどのような見方をすればいいのか、文章を読むとはどういうことなのか、理解したことを運用するにはどうすればいいのか、効率よく暗記するにはどうすればいいのか、多くの人はこういった「勉強の仕方」を学校の勉強を通して勉強することになる。今ちょうど君は、国数英理社を勉強することを通して「勉強の仕方」を勉強している。

君の一年生のときの成績を見る限り、国数英理社の内容を理解できていないことより、「勉強の仕方」を勉強していないことのほうが問題のようだ。そりゃあ教科の内容がいつでも面白いなんてことはない。内容が面白くて夢中で勉強するなんてことのほうが少ないに決まっている。けれどせっかく「勉強の仕方」を勉強する機会があるのにそれを放棄しては、将来の自分を苦しめることになるだろう。

将来君がなにかの勉強をしなくてはならないときというのは、それなりに迫った事情があるからだろう。この資格をとらないとなりたい職に就けない、この勉強をしないと会社を首になる、そういう人生がかかったタイミングで君は勉強を強いられることになる。そのとき「勉強ってどうやってやるんだっけ?」などと言っていては君の人生はどうなるだろうか。

これからお姉ちゃんが君に「勉強の仕方」を伝えていきたいと思う。お姉ちゃんが示した「勉強の仕方」から君が勉強するかしないか、それには君の人生がかかっていると思う。

 

三つ目は、勉強は君のがんばりを反映するからだ。

もちろん数学がどうしても苦手だとか、暗記が苦手だとか苦手はひとそれぞれだと思うけれど、努力すれば苦手なことでもある程度できるようになる。なのにできないと、君を評価する立場にある人は君を「努力のできない人だ」と判断するだろう。君を評価する立場にある人というのは、部活や担任の先生、入試・就職試験の試験官、場合によっては友達や恋人を含む。そういった人に、君はどのように見られたいだろうか? 試験官なんて知らないわと思うかもしれないけれど、どんな高校に行くか、ちゃんと高校を卒業するかという君のがんばりは、未来のまだ見ぬ人たちに君のがんばりを示すことになる。

物事にはがんばる必要のないもの(たとえばいじめられているのを我慢すること)もあるけれど、少なくとも君にとっての学校の勉強はがんばらなくてはならないものだ。君と同じように学校の勉強を経験し、13年間君を見てきたお姉ちゃんはそう思う。君は少し集中力は欠けるけれど、数理処理能力と読解力は人並みにあるし、空間把握能力と暗記力は人並み以上にある。努力すれば成果が帰ってくると約束する。今君の周りにいる人たち、そして未来に会うたくさんの人たちに、君は努力できる人間だと教えてあげたいと思わないか?

 

長くなってしまったが、以上が君に死に物狂いで勉強してほしい理由の三つだ。

お姉ちゃんはこれから、君が学校の勉強の内容を理解する助けをし、君に学校の勉強の仕方を示す。君にはどうか、貪欲に吸収してほしいと思う。

もちろん今を大切にしてほしいし、大切にしていいのだけれど、君には未来も大きく広がっていることを忘れないでほしい。

 

 

姉より