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マイノリティに接するときに感じる異質性に起因する抵抗感

最近勉強していることに関わるのだが、ある哲学者が理想として与える政治的主体には、周囲からその存在を尊重されるという要件がある。

 

障害を持つ人や病気持ちの人が専用施設ではなく一般の企業などで就労しているという新聞記事があると、多くの人はそれを肯定すると思う。彼らは健常者よりも生産力は低いが、ハンデがありながらも健常者の中でがんばっている。すごい人がいるものだな、と思いスポーツ面を開く。

 

実際に自分と同じコミュニティにハンデを負った人がいたとしたらどうだろう。なんでこんなことを考えたかといえば、今学期とっている授業の担当者がどうも病気持ちのようだからだ。腰痛だろうか、立ち上がったり歩いたりするのに苦労するようで板書がおそろしく遅い。基本的にはパワポで授業をするが、よせばいいのに板書したがる。演習なのだが予習も課さず授業中に問題を解かせて時間を浪費する上に、解説がのんびりしていてたまったものじゃない。

 

後半は病気には関係のない個人中傷と愚痴になってしまったが、安からぬ授業料を奨学金で納めている身としては、それなりの授業を展開してほしいと期待してしまう。いや、いらいらしているのはそんな立派な理由じゃなくて、ちんたらした板書や危なっかしい歩き方が気に障るからだろう。

 

しかしこの人が大学教員のポストにあるということは、それ相応の研究をする資格があると大学に認められたからで、その資質・能力・努力について一学生にはけちのつけようがない。たとえ身体的にハンデがあったとしても。見ていていらいらさせられるとしても。

 

大学教員というポストは社会的地位が高く、おおむねそれなりの待遇を受けることが想像されるが、そういった権威はハンデを持つ人へのまなざしにいかほどの影響を与えるのだろうか。うまく歩けない人に対して憐れみやいらだちの混ざった複雑な感情を抱くことは誰しもあるはずだが、そういったなんとも言えない感情を、「うまく歩けないこと」からは独立した権威は超克しうるのだろうか。

 

簡潔にまとめる。多数派にある者は、マイノリティがマイノリティたるゆえんのところの性質を持つ者(要はマイノリティにある人々)に対し、自分との異質性を見いだして抵抗を覚えてしまう。これは、同じ共同体にあって互いに尊重し合う主体にとって危機である。この危機を乗り越えるためにはどうすればよいか? ひとつはマイノリティをマジョリティに同化することだが、これは否定される(また別の議論が必要だがひとまずおいておく)。次はマイノリティの隔離であるが、その失敗は歴史を振り返れば明らかである。さらに考えられるのはマイノリティの尊重であるが、この尊重が難しいのである。

 

いちばん積極的な尊重は、マイノリティがマイノリティたる理由によって尊重されるということだろう。ある自閉症の画家が描く絵は、彼が自閉症でなかったら見えていない世界を描いている。対してマイノリティたる理由からは独立したなにかしらの性質は、彼の尊重につながるのだろうか。

 

マイノリティに接するときに感じる異質性に起因する抵抗感。

この感覚は超克されうるものなのか、もっと進んで和らげる・消すことができるものなのか、考察の余地がある。