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オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』感想

フリーセックスが奨励されて麻薬飲み放題の新世界ってなんてユートピアなんだ、と思って読み始めたオルダス・ハクスリーすばらしい新世界』。

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応用倫理の学生にとってはつっこみたいところがいっぱいありすぎて大変興味深かった。ディストピア小説として論点はたくさんあるものの、すべてを挙げてもあまり面白くないので、気になった点のみピックアック。あらすじになってもしょうがないし。

 

①「母親」「家族」といったものは「猥雑」である

 この新世界の人間は<孵化・条件付けセンター>の壜の中で生殖・養育される。受精卵の段階から新世界の階級分けは決定しており、遺伝子のレベルから上層階級/下層階級の人間が決定しているのだ。人間が工場生産される世界では、「結婚」「父親」「母親」「家族」「子育て」といった言葉や慣習が大変猥雑なものとしてとらえられている。新世界の人々は生殖にまつわる拘束から解き放たれ、家族に起因するしがらみから自由になった。家族という閉鎖的な生殖のコミュニティに対置されるものとして性的放埒さ・フリーセックスが規定され、新世界においてはその放埒さこそが善とされるがために、性的な規範における悪――すなわち猥雑さとして、家庭は理解される。

 結婚制度や家制度の問題点は指摘されて久しく、また過度に保守的な人々は家制度の崩壊と性倫理の崩壊を接続して語ろうとする。しかしハクスリーは、単に家の解体と性的放埒を対置して、性的放埒の悪を語ろうとしているわけではないだろう。<孵化・条件付けセンター>では、単純労働に従事するガンマ・デルタ・エプシロン階級は一つの受精卵を多胎児として生産し(ボカノフスキー化)、社会の中枢を担うアルファ・ベータ階級は一つの受精卵から人間を作る。ガンマ以下の階級の人間に個性は必要とされず、アルファ・ベータ階級の人間に期待されているのも、個としての能力ではなくレベルの高い知的労働に従事できるだけの知的能力である。人々を生殖のしがらみから解放することを担保する人間の工場生産は、個としての人間の尊厳や特殊性を無視することによって成り立っている。

 

②「誰もがみんなのもの」

 新世界のスローガンは「共同性、同一性、安定性」であり、この目的を疎外しようとする試みは反社会勢力として排除される。最もわかりやすい反社会的行動は、フリーセックスを楽しまないことである。また別の例を挙げれば、気持ちが塞いでいるのにソーマ(気持ちを高揚させる麻薬)を飲まないことである。誰もが誰かの所有物ではなく、誰もが社会全体に共有されている(ただし男尊女卑の構造はある。女性も多くの男と寝るが、描かれているのはベータ階級の女性がアルファ階級の男性と寝ることばかりである。つまり、女性は階級の高い男に抱かれることを目的としており、そういった性的関係はやはり男性優位のものとして理解されるだろう。女は社会の共有物なのだ。)。それは共同性であり同一性である。また、マイナスの感情は社会の安定性を揺るがすのだ。

 さきほど、新世界は個としての人間を尊重しないということを書いたが、それは新世界のスローガンとして明確に打ち出されている。この世界では、人間は誰とも同じではないという個別性に価値があるのではない。一度破滅的な戦争を経験したこの世界では、なによりも世界の安定を切望した。それを突き詰めていった結果が共同体としての世界の安定であり、その安定のためであれば個をつぶすことも厭わないのである。世界の安定を保つためには個というものはむしろ邪魔なものであり、ストライキや労働運動を引き起こして社会不安を引き起こすような労働者は、受精卵の状態で操作して知能を低く抑えたほうが都合がよい。また一定数必要な高度な知的労働者たちは、「誰もがみんなのもの」という「倫理」を守る少数者であり、そういった高度な「倫理観」によって社会の安定が維持されるのである。

 

③極端なまでの現在主義

 新世界で人々がソーマを飲むのは、過去の悔恨や未来への憂鬱を忘れ、現在という時間を快楽の中で過ごすためである。新世界の人々にとってソーマを飲むことは常識で、現在という時間を楽しむことが当然のことなのである。過去や未来について悩むという選択肢は存在しない。

 こうした現在主義は、科学技術の在り方をも貫いている。新世界は人の老いをコントロールできるまでに発展している(高齢になって死ぬような人々も少女のような見た目をしている)が、新世界で科学技術が扱うのは、現在問題になっている目先の課題のみである。老いをコントロールしたいと思ったらその技術を、新たな感染症が発見されたらその治療法を研究するのであって、科学的な真理の探求をしてはならない。真理の探究という試みは、社会の安定性を脅かす危険性があるからだ。

 

さて、三点を通じてわたしがぞっとしたのは、この新世界において、人間という存在を時間軸・空間軸で理解するという仕方が拒絶されていることである。つまり、人間は一人ひとりが異なる遺伝子を持っていて二人と同じ人間がいないという、時間的・空間的な広がりがあるという前提が覆されている。哲学・倫理学という営みは、あらゆる人々が異なる中で、人間という普遍的な存在について論じようとするものである。自然権なんかはその最たるものであって、圧倒的な多様性の中でいかに普遍を述べようかとする挑戦である。しかしこの世界では、人間の種類は言い尽くせるほどに限定されている。この新世界では哲学という営みは必要とされていないのだ。

 

以上、恐ろしい『すばらしい新世界』の感想。あと「新版への作者の序文」はネタバレになるから本編の後ろにあるけれど、訳者あとがきは最初に読んだ方が面白い。ネタバレ要素はほぼないし、新訳で凝らされている表現上の工夫について述べられているので、最初に読むことをおすすめする。