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中村高康『暴走する能力主義――教育と現代社会の病理』ちくま新書

学習指導要領はじめ、中教審の答申はじめ、教育行政のみならず現代社会全体が「○○力」なるものに踊らされてきた。育むべき「力」があるなら、教育現場の具体的場面で「力」を明文化し、それを育む手法を研究し、育むことができたか評価しなくてはならないが、現場にそのような熱意があるわけではない。指導案を書くときに、いかようにでも用いることのできる耳障りのよい言葉としてくらいしか、「コミュニケーション能力」とか「言語能力」とかいう言葉は(少なくともわたしは)使わない。

 

中村高康『暴走する能力主義――教育と現代社会の病理』(ちくま新書)では、そもそもコミュニケーション能力のような「新しい能力」は、戦前から言葉を変えながら必要と説かれてきたものであることを明らかにする。「能力」によって人々を適した社会的地位に置く「能力主義(メリトクラシー)」は、「伝統」が幅を利かせていた前近代から近代への転換の象徴であるが、「伝統」が「能力」に転換しただけとも言える。「能力」による社会の地位配分の妥当性は常に問われることとなり、「新しい能力」論は繰り返し現れることとなった(と本書ではギデンズを援用しながらちゃんと書いているので参照されたし)。つまり、「命題5 現代社会における「新しい能力」をめぐる議論は、メリトクラシー再帰性の高まりを示す現象である」(引用)。

 

「新しい能力」を声高に述べる胡散臭さを適切に論じ、すっきりさせてくれた。最終的にどこにおとしこむのかな?と思ったら、大筋は、コアのない「新しい能力」に振り回されるのではなく、これまでの教育内容を少しずつ修正していくことに注力すべしということであったが、本当に最後の最後で反知性主義に釘が刺される。もう一度すっきり。