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新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』東洋経済新報社

一般向けに敬体で書いてあるから一冊すぐに読み終わるけれど、ぐぬぬと沈むような読後。
前半は、

①一般的にAIと呼ばれている技術は、教師データを大量に統計的に学習させた結果を出力するのであって、コンピュータが論理的に弾き出した結果ではないということ
②それゆえ、シンギュラティと呼ばれる事態はまず起きないだろうということ(データの読み方を教える人間がいなければコンピュータはデータを出力できない)

後半は、
①したがってAIが人間のすべての仕事を奪うことはないものの、AIが代替する仕事はたくさんある。その多くが、現在ホワイトカラーが担っている仕事である(証券トレーダーとか銀行窓口とか)
②著者は「東大合格を目指すロボット」の開発を通じてAIの限界を示そうとしてきたが、東ロボくんに受験勉強をさせるなかで、読解力について研究を進めてきた。東ロボくんはセンター模試で偏差値57?くらいを出せる実力まで伸びたが、英語と国語が偏差値50を越えず、コンピュータの読解力の限界を知った
③しかし世の中には、東ロボくんよりも模試の成績が下の生徒が存在する。それはなぜか?  中高生を対象に読解力について調査を行ったところ、教科書程度の文章の読解力を問うテストで、同義文を選ぶ問いや、一般と具体を行き来する問いで、正答率が伸び悩んでいることがわかった。

 

というような概要で、以下がわたしの感想。

教科書が読めないというのはわたしも感じることがあって、同時に、物事を「考える」というより、「当てる」というような子が多いなとも感じていた。数学の問題を間違えてしまった子が、先生とのやり取りのなかで「x=1?2?5?」と端から数字を挙げていくような場面をたくさん見てきたが、そのような習慣は、既に文章を読むなかで育っていたのかと納得。「エベレストは世界でいちばん高い山だ」ということを示したあとに、「アコンカグアはエベレストより高い山だ。正しい?誤っている?」という問いに答えるとき、「正しい」「誤っている」と、考えられる選択肢を挙げて、当たればラッキー、当たらなければ残念、というように、統計的に文章を処理している場合があるのだなと。これはたしかにマークシート的な試験を突破する技術を問うテストによって生じた弊害だなあと思う一方、たとえばセンター試験を論理的に解こうとすれば、結構ねらいを定めたよいテストだと思うので(少なくともわたしの専門は)、現場の方に改善の余地があるよなあと感じた。統計的な処理で人間がコンピュータに勝てるわけがないので、「当てる」というような習慣ではなく「考える」という習慣を育てる実践をしなくてはならないなと。

 

そのために何が必要かと言えば、本の中では明確な答えが出せないという結論になっていたし、わたし自身も特効薬みたいなものはひらめかない。とはいえ、子どもに考える習慣をつけさせるのに手っ取り早い制度整備は、多くの子が経験する高校入試を、当たれば解けるものではなく、考えなければ解けないものにすることかなと思う。といってもそれでは入試を突破することが目的になってしまうので、あらゆる学校生活の中に考える習慣を盛り込むことが良いのかなと。校則や諸ルール、学級・部活の目標を生徒に考えさせたり、ペーパーテストはレポートにしたり、三者懇談は生徒から親・教師へのプレゼンにしたり、非現実的だが、修学旅行の行き先を生徒自身に決めさせたり、等々。これは当然手間のかかることなので、人手とそれをやり遂げる力を持った教員がいなくてはならない。しかし、そういうことまでやらないと、多くの人間がAIに負けてしまうのかなあと思った。